この度、KISの体育科教員である廣田景一先生が監督を務める神戸国際大学サッカー部が、関西サッカーリーグの1部に昇格しました。
神戸国際大学のサッカー部の選手は、KISの「哲学カフェ」にもだびたび参加しています。
KIS生は、みんな知ってる廣田景一先生。(^^♪
体育の先生であり、KIS名物『哲学カフェ』の主宰者。先生の授業がなくなると、みんなが「え~っ!?」という反応…
なぜだかわかりますね。
みんな、廣田先生が・先生の授業が大好きなんです。
(もちろん!)単に身体を動かすだけの授業じゃないし、単に技術を伝授するだけの授業でもない。
そう。
廣田先生の授業は(普段の姿勢もそうですが…!)、先生は“対話”を大切にするんです^u^)
「僕は今何をしているのか?」
「みんな(全体)の中で私はどんな位置?立場?役目?」…
常に思考を求められるのです。しかも、考えるだけじゃなく、考えてそれを行動につなげることを求められます。
しかもしかも、これらは、先生からの指導という名の命令から発するのではなく、あくまで自発性が前提。
そのためには、廣田先生は「待って」もくれるのです。
それを、KISのみんなは知っているんですね!
そもそも『対話』とは、ヨーロッパで特に重視されてきました。と言うよりは、その『対話』が必要だから、“(二度の世界大戦をも含めた)歴史”の流れに鍛えられながら、今も当たり前のように、展開されているんです(KIS英語科のジェレミ―・アンドリュー・ハード先生は、これらを含むヨーロッパ近現代史・社会学が専門なんですよ!KISで、“そこらへん”を(もちろん英語で!!)、授業してくれないかなあぁ…! →池田の独り言)。
さて、廣田先生の『対話』の話ですね;
<ヨーロッパの社会では、民族は様々な形で混ざり合ったり衝突しながら多様な文化を作ってきました(しかも、ほとんどの国境で国々はとなり合わせ!)。
そういった地域では、当然他人と自分のことをうまく説明する言語が発達します。「自分はどういう人間なのか。」、「何を愛し、何を憎んでいるのか。」、「何を人生の中で大切に思っているのか。」といった個人や民族の価値観を、自分のことをなにも知らない他人に、言語で伝えなければならないのです。そこで“対話”という習慣が生まれ、育ってきたのだろうと思います。(『対話を考える』平田オリザ「現代の国語2(三省堂)」より※文中“”、( )内、及び傍点は筆者による)>
反対に日本では…
<日本人の多くは、長い間、流動性の少ない社会に生きてきました(島国だしなあ、確かに!)。
…中略…ほとんどの人は、自分の生まれた土地から一歩も出ないで、人生を終えたのです。そんな閉じた社会では、周りはみんな知っている人ばかりです。そこでは、知っている人どうしが、どうやってうまく調和し、生活をしていくかということが大切になります。
…中略…日本語では、似たような価値観をもった仲間での合意や意思の疎通のための“会話”に重点が置かれたのです。(同上)>
多様な文化的背景を持つ生徒達が、自らのアイデンティティについて自由に考え、そして学ぶことができ、複数の国家・境界を「またぎ」、“越境人”を育成するというKIS。
「またぐ」だけでは、単なる結果であり、状況にすぎない。それを活性化し、ある種の化学反応を起こす必要があるのではないのでしょうか。
そのための…『対話』。
その『対話』を以て、最前線で、今日も対話する廣田景一先生でした!
「関西学生サッカー、一部昇格、おめでとうございます!『対話』の勝利ですね!」
文責:池田大介(副校長)