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“海外研修”異考説的展開①-《Fiji編》

“海外研修”異考説的展開①-《Fiji編》
〜進化し続けなければ、
海外研修の意味はない!?〜

「国際化」とは、いったいなんだろう!?
国内外のインターナショナルスクールで数十年教鞭をとり、授業を通じ、生徒と語らうことを通し、感じてきたことは…

人は言う。
「相手のことを理解する・理解しようとする姿勢」が、国際化である、と。
しかし、理解しようとする姿勢は、やがて「慣れ」を生み、行き着く先は、あろうことか、「馴れ合い」、である。
そして、必要以上で過度の相手を理解しようとする姿勢は、相手への安易で短絡的な「迎合」さえ生/産むであろう。
その「迎合」という方向性は、一方通行で、「迎合」される側には、やがて「迎合」されることに当然性を感じ、構造上の上下関係の下、必ずや「独善」を産/生むに違いない。
要するに、自分自身で思考し、その場で判断し行動する、という、それこそ多様な価値観が交錯するこのボーダレスの時代に、自衛に為にも必要な姿勢を、逆に失ってしまうということが「国際化」の悲しく哀しい末路なのかもしれない。
だから、私は、「国際化」とは、個人的に、「出会い『続ける』こと」であると思っている。

それは、よりエネルギーを放出する、ある種のしんどさを伴うこと必至。「馴れ合い」を避け、安易な「迎合」を予防し、「独善」に一線画するための方策である、とも言える。
偖。
私達KISでは、昨年度フィリピン研修旅行を実施、内外から一定の評価を得た。
英語集中講座に、現地の名門校通常授業の体験入学、スラム地域、台風・津波被害の視察、貧困地域へのホームステイ、貧困に関するワークショップ参加、少数山岳民族の村へ登山・ホームステイ、などなど。
毎年、送りこむ生徒は違うんだから、常にフレッシュな状態をキープすることができ、「慣れ」や「迎合」は生/産まないと言えるのかもしれないが、参加する人がそうであっても、プログラムそのものが月日を経、やがて矛盾という風化を起こすことであろう。
また、「KISは越境人を養成する」と言う。世に存するあらゆる境界をまたぎ、「自」と「他」を自在に行き来すると言う。ここに、「慣れ」や「迎合」、そして「独善」産/生まれないか。
否、必ずや生/産まれるであろう。
つまり、「またぎっぱなし」では、そこに第三の価値観を生むだけで、「慣れ」・「迎合」・「独善」は、もはや非現実ではないのだ。
しかも、その第三の価値観という代物は、「中途半端」という甚だ厄介な、新たな問題さえ創出してしまう可能性さえあるのだ。

だから、私達は、フィリピンで満足してはいいけない。もちろん、フィリピン研修をそのままにしておくつもりはない。
より進化させる努力を続け、同時に、並行的に、新たなものを創出していく必要があるのだ。

今出てきている案は…

…つづく…

文章:池 田  大 介(副校長・進路指導部長)
写真:ジェレミー・ハード(英語科・平和学担当)